ためらいと憂鬱

伝えられないぼくらは何処へいこうか

アヴァンギャルドはゼロかイチか-定義を考える

遂にTwitterに手を出してしまった。
何も書かないかもしれないし、何かを書くのかもしれないが。
即誰かに伝えたい思いはないのだが、さてどうだろう。空っぽの牛乳瓶で牛乳を注ぐような文章や言葉を選んでいる気がすることに苛立ちを覚える。
 
 
このブログを始めてすぐ「ShinyBooks」代表の山田宗太朗氏から連絡があり「ぼくたちが作っている雑誌のWeb限定記事に河原さんの評論(と呼べる代物ではないが)を掲載したいのですが」と持ちかけてきた。

山田氏は私より若いが、あらゆる知識が豊富で頭の回転も速く賢い青年だ。最近彼らがインディーズレーベルを立ち上げたことは知っていたが、まさか私がつい最近書いた文章を「載せたい」と言われるのは予想外で即答できなかった。どちらかというと私の文章は「誰かに読ませる」ものではなく、思いついたものを己のために書いている。一度目の大学在学中に出したレポートも「非常に読みづらい」と一蹴された経験もある。それでも心のどこかに「誰かの感想を聞いてみたい」欲求があったのだろう。割とすぐ「いいですよ、是非」と答えていた。

アヴァンギャルド・アウトテイクスは以前から読んでいた。
前述山田氏の一見disrespect風な乃木坂46への情熱レビューは小気味良いし、九十現音氏のレビューは豊富な知識に基づいた精度の高い一つの「芸術作品」と感じ、澤雪氏は分かりやすく詳しく丁寧に綴る「ラブレター」だ。個性の強い面々が集まった場合、待ち受けているものは「崩壊」もしくは「新たな可能性」である。これは人間関係においてよくある話で大抵は前者で終わる。しかしアヴァンギャルド・アウトテイクスの後者ぶりには只々驚くばかりである。(聞こえは良くないが)アクの強い文章が集結して、ここまで読ませるブログを私は未だ知らない。
 
ここでふと「アヴァンギャルドの定義」について考えた。
無論、この見解は山田氏を始めとするShinyBooksの「アヴァンギャルド」とは違うことをご容赦願いたい。
 
 
アヴァンギャルド」のそもそもの意味は「前衛芸術」だが、前衛的なそれが全てアヴァンギャルドであるとは到底思えない。今流行しているものは流行の回帰であったりアレンジだったりと「人が変われば時代も変わる論」で通り過ぎてゆく。私の母親が二十代の頃に流行った「ポックリ」は、私が二十代になって「ウェッジソール」として蘇った。そのようなものだ。
私が敬愛するM.C.エッシャー(以下エッシャー)は独創的なリトグラフ(個人的に衝撃を受けたのは中学生の時に見た「物見の塔」だった)がフィーチャーされがちだが、基本は数学や建築における論を絵画に取り入れている柔軟な芸術家だ。芸術を芸術だけでとどめようとせず、芸術とは一見離れた場所にあるようなものを作品に反映させる――エッシャーの試みこそが「アヴァンギャルド」だったと感じる。

机上の空論として、誰もがいくらでもアイディアを出せるだろう。それをいかに具現化するか可視化するのか、私はこの工程に刺激を受け、感動する。話は逸れるがエッシャーの風景画(特に水がかかわる画)はどこか懐かしさを覚えると同時に淋しさも感じる不思議な魅力があることを添えておく。
 
つまるところ、「アヴァンギャルド」を掲げるためには「柔軟性」の有無が重要なファクターであり、柔軟性を育てるための大前提に「基礎」が必要となる。基礎を大切にしないものは先人たちに申し訳ない。「前例のないものをつくる」気概は大事だ。しかしゼロからその気持ちを抱けるのだろうか。生を受けて情報を得ていくなか、何かに反発したり何かに立ち向かうために自分の思想を様々な方法で訴えるのではないだろうか。
 
若者よ、驕り高ぶることなかれ。
先人を敬い、そして越えてゆけ。
 
膨大な資料や情報は、すべて自分が生み出したものではないものを肝に銘じながら、新たなものを作ってゆきたいと強く思う。